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キャベツの内包

· 11 min read
Ikuya Yamada
non-stack engineer

年末年始は寒くなるという予報通り、底冷えのする日々を過ごす。そんな寒い日におすすめの食材がキャベツである。

キャベツは千切りにして鍋に放り込むと美味しくいただけるし、ざっくり切って回鍋肉にしてもよい。鍋は暖を取るのに最適の料理であるし、回鍋肉もスパイスを効かせれば体がポカポカしてくる。

と、やや強引にキャベツを連想させる導入となったのは↓の本を改めてペラペラとめくっていたからである。

https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I032499870 哲学はこんなふうに アンドレ・コント=スポンヴィル 著 木田元, 小須田健, コリーヌ・カンタン 訳

哲学的に意味をもたないタイプの不可知論者

以前読んだときに貼った付箋を頼りに流し読みをしていたわけだが、改めてすこし気になったところを引いてみると、第八章 無神論 (p123-124) より、神の存在に対するスタンスの一つとしての不可知論者に関して、その特徴を述べた部分で次のように語られる。

不可知論者とは、この選択を拒否するひとのことだ。[…] 不可知論とはいわば形而上学的中道主義であり、あるいは宗教的懐疑主義だ。不可知論者はいかなる立場にも立たない。彼は決着をつけない。[…] だからこそ、不可知論者は論理学者たちの言いかたを借りるなら、外延において獲得するものを内包において失うのだ。[…] 不可知論者が哲学的に意味をもつようになるのは、自分が知らないということをたんに肯定するにとどまらず、さらにさきまで進んで、この肯定だけで十分だと、もしくはこの肯定がそのほかのどんな態度よりもましなものだと肯定するばあいだけのことだ。

ここでは神の存在/不存在について不可知論者がとりうる態度が語られているが、もうちょっとその存在が確定的に肯定されうる例で考えてみるならば、「秋が終わったからといって冬が来るとは限らない、今年は秋の次に夏が来るかもしれない」みたいなことを言い出して冬への備えをしない不可知論者が身の回りにいたら厄介極まりないだろう。

そんな人間よりは、人生経験に基いて、秋が終わったら冬が来るのだと認識して、ユニクロでウールのセーターでも仕入れて寒さに備える方がよっぽど「ましな態度」(であり哲学的にも意味がありそう)に見える。

さて、この「内包」という表現だが、プログラミング言語であるPythonの世界には内包表記という概念が存在する。

これは、要素が作られる法則を知っていれば要素を書き上げなくてもリストや辞書を作れるといった機能であり、

例えば、「0以上20未満の整数のリスト」を作りたければ

>>> a = [0, 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10, 11, 12, 13, 14, 15, 16, 17, 18, 19]
>>> print(a)
[0, 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10, 11, 12, 13, 14, 15, 16, 17, 18, 19]

のように頑張らなくても、以下のように横着してリストを作ることができる。

>>> a = [i for i in range(20)]
>>> print(a)
[0, 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10, 11, 12, 13, 14, 15, 16, 17, 18, 19]

つまりi for i in range(20)の部分がリストを生成する法則であり仕組みということになる。

これを逆転して、

[0, 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10, 11, 12, 13, 14, 15, 16, 17, 18, 19]

のリストが与えられたときに、このリストの右側に加えるべき数字はなんだろうと問うてみる。

常識的な人間ならば、加えるべき数字は「20」であり、そしてその次は21,22,... と続いていくと答えるだろう。こうして、手作業であっても、時間をかければ長いリストを作成することができる。

横着して内包表記を使うなら、任意の正の整数をとるxを導入して、range(x)とすることで十分に長いリストを産み出すことができる。

ここで、 いやしかし、と哲学的に意味をもたない不可知論者は待ったをかける。そして「前提として与えられたリストを見ると、0から始まり1ずつ加算されて、19まで至っているが、この法則が20以降も適用されるとは限らない」というような趣旨のことを言い出す。

「20以上の場合は要素の並び順を二乗した値が採用されるのだ」などとも言い出すかもしれない。

つまり、先の数字の並びをみたときに、

>>> a = [i for i in range(x)]

という内包を直観できず、20以降は要素の順番を2乗するというルールの可能性を主張したりする(つまり20ではなくて400)。

>>> x = 21
>>> a = [i if i < 20 else i**2 for i in range(x)]
>>> print(a)
[0, 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10, 11, 12, 13, 14, 15, 16, 17, 18, 19, 400]

このような形できっと、哲学的に意味をもたない不可知論者たちは、「外延において獲得するもの」を「内包において失」っているのではないだろうか。

どこかで知ったクリプキのクワス算も思い出しながらそんなことを思った。

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第四章 死 の p67-68 あたり。「死」についてモンテーニュが考えたことについて。死に対して立ち向かう姿勢を見せていた前期の著作から、死に頓着しない、穏やかな受け入れを見せた後期の著作にかけて、死に対するモンテーニュの態度の変化が論じられる。

この部分、モンテーニュの思想に関して、やや孫引きのようになるのだが、次の一節がお気に入りである。

死への不安など、つかの間のものにすぎない。死に立ちむかう勇気にしても、つかの間のものにすぎない。それよりは、死に頓着しないほうがよい。そのような態度は気晴らしでも忘却でもなく、穏やかな受けいれなのだ。これこそが、モンテーニュがつぎのような一言でまとめてみせたものであり、これは彼の書いたもっとも美しい文章のひとつだ。「私が望むのは、できるだけはたらき、人生の務めをできるかぎり長く果たしつづけることであり、死が私のもとを訪れるのが、私がキャベツでも植えているとき、それも死に無頓着で、そればかりか自分の庭園が未完成なままであることにさえ無関心でいるようなときであることだ」。

キャベツを植えているとき、それも自分の庭園が未完成なままであることにさえ無関心な瞬間だから、おそらく目の前のキャベツを整然と植えることに集中しているのだろう。そんな瞬間に死が訪れてほしいと言っているのである。

この表現に閉じ込められたリアリティと、豊かな感性に心が動かされ、読んでしばらくしても心の中で一定の存在感をもっている。

私にとってのキャベツは何だろうと、ひょっとしたらキャベツそのものなのかもしれないなと、千切りをしながら考える。