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Ikuya Yamada
non-stack engineer
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65.5km走破したこと

· 9 min read
Ikuya Yamada
non-stack engineer

自転車()で65km移動してわかったことの続き

自転車を準備してもらっている段になり、どうやら自転車の在庫にはずいぶん余裕があるようだと気付く。なにも開店すぐを狙わなくても全く問題はなさそうであった。

自転車に跨ってみると、どうにもリュックが邪魔くさい。それなりの量の荷物があったので、駅のロッカーにでも置いておこうかと考えたが、観光案内所のドアに'500円でアズカリマス'というようなことが書いてあったのでお願いすることにした。

具体的・抽象的に言うこと

· One min read
Ikuya Yamada
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景気がよくなってきた、とか、売り上げが好調である、といったときにそれでは具体的にどのくらいの効果があったのだろうと数字を見にいくことがある。

2025年10月1日にxxxx円だった日経平均が2026年2月10日にはxxxx円になっている、と聞かされるとなるほど景気が良いのかもしれない、と思わされる。

定量化すること

一人であること

· 4 min read
Ikuya Yamada
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年末年始の喧騒を経て2月が訪れる。2月は「逃げる」のだと言われるが、果たして逃げているのは2月の方なのか我々自身なのか。なんてことを問うてみる。

私たちが2月に逃げられることが成立するということは、2月に追いつきたい、2月にそばにいてほしいという願望が前提にあるのかもしれない。

であればなぜ2月なのだろうか。

というよりも、2月に限らず月が過ぎること自体が

結局ぐるぐるして元に戻ってきた感があるが、とにかく2月は短いものである。

さて、年末年始の喧騒とは言ったものの、私自身の回りはとくに喧騒といったほどの騒がしさでもなく、ただしみじみと年を越したものである。この傾向は年々強まるもので、

とはいえ相対的には騒がしいのが年末年始であり、それは人と集まる機会が増えるからで、当然仲間意識のようなものも感じる。

友人や家族と時間を共にすることは、普段社会に揉まれる我々にとっては、どこか自分の居場所を見つけたようで、自分を取り戻したように感じる瞬間でもある。

far-toino

· 9 min read
Ikuya Yamada
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2025年末ではあるが、2024年夏のことを思い出しながら。

遠野物語を読んで遠野市に行きたくなったのか、遠野市をGoogle Mapsで見つけて旅行前の教材として購入したのか忘れたが(おそらく後者)、とにかく本棚には今も新潮文庫版の遠野物語が鎮座している。

柳田国男 著. 遠野物語, 新潮社, 2016.6, (新潮文庫 ; や-15-1). 978-4-10-104706-5. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I027299197

新潮文庫版の『遠野物語』には、巻末に三島由紀夫による解説文が掲載されている。これは三島の『小説とは何か』の九章から抜粋されたもので、この章で三島は遠野物語を題材に小説の定義について語る。

三島による解説はそれ自体が作品のようになっており、芯を食った見事な表現が多く、まさに評論とは何か、を端的に表しているようにも感じた。遠野物語自体もふむふむと読んで興味深い話もあったりしたのだが、この書評に出会えたことで読後の充実感が何倍にもなったことは否定できない。

さて、三島による書評が取り上げた話のひとつに、遠野物語の第二十二節がある。この話は、雑にまとめると、亡くなった老女が幽霊の姿になって家に現れたという話である。非常にシンプルな構造の話ではあるが、その中で、老女の着物の裾が囲炉裏のそばにある炭取(炭をいれておく籠・箱のようなものと思われる)に触れ、その炭取がくるくると回るという一節がある。三島はそこに注目し、この一節にこそ小説が存在するのだと絶賛する。

この中で私が、「あ、ここに小説があった」と三嘆これ久しうしたのは、「裾にて炭取にさはりしに、丸き炭取なれば、くるくるとまはりたり」という件りである。 ここがこの短かい怪異譚の焦点であり、日常性と怪異との疑いようのない接点である。この一行のおかげで、わずか一頁の物語が、百枚二百枚の似非小説よりも、はるかにみごとな小説になっており、人の心に永久に忘れがたい印象を残すのである。 ... しかし炭取の廻点によって、超現実が現実を犯し、幻覚と考える可能性は根絶され、ここに認識世界は逆転して、幽霊のほうが「現実」になってしまったからである。 ... 炭取はいわば現実の転位の蝶番のようなもので、この蝶番がなければ、我々はせいぜい「現実と超現実の併存状態」までしか到達することができない。それから先へもう一歩進むには、(この一歩こそ本質的なものであるが)、どうしても炭取が廻らなければならないのである。しかもこの効果が、一にかかって「言葉」に在る、とは、愕くべきことである。 ... 私が「小説」と呼ぶのはこのようなものである。 ...

というように、この話における炭取の効果を鮮やかに解説したのち、さらにラディカルに、この「炭取の廻点」こそが小説の定義なのだと主張する。

キャベツの内包

· 11 min read
Ikuya Yamada
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年末年始は寒くなるという予報通り、底冷えのする日々を過ごす。そんな寒い日におすすめの食材がキャベツである。

キャベツは千切りにして鍋に放り込むと美味しくいただけるし、ざっくり切って回鍋肉にしてもよい。鍋は暖を取るのに最適の料理であるし、回鍋肉もスパイスを効かせれば体がポカポカしてくる。

と、やや強引にキャベツを連想させる導入となったのは↓の本を改めてペラペラとめくっていたからである。

https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I032499870 哲学はこんなふうに アンドレ・コント=スポンヴィル 著 木田元, 小須田健, コリーヌ・カンタン 訳

哲学的に意味をもたないタイプの不可知論者

以前読んだときに貼った付箋を頼りに流し読みをしていたわけだが、改めてすこし気になったところを引いてみると、第八章 無神論 (p123-124) より、神の存在に対するスタンスの一つとしての不可知論者に関して、その特徴を述べた部分で次のように語られる。

不可知論者とは、この選択を拒否するひとのことだ。[…] 不可知論とはいわば形而上学的中道主義であり、あるいは宗教的懐疑主義だ。不可知論者はいかなる立場にも立たない。彼は決着をつけない。[…] だからこそ、不可知論者は論理学者たちの言いかたを借りるなら、外延において獲得するものを内包において失うのだ。[…] 不可知論者が哲学的に意味をもつようになるのは、自分が知らないということをたんに肯定するにとどまらず、さらにさきまで進んで、この肯定だけで十分だと、もしくはこの肯定がそのほかのどんな態度よりもましなものだと肯定するばあいだけのことだ。

新幹線で迷い込んだこと

· 7 min read
Ikuya Yamada
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新幹線の自由席、窓際に座っている私は、とろとろとした頭をシャキッとさせようと、コーヒーを口に含む。そして移動時間も無駄にしないようにと、カバンから取り出した本を開く。

本を読み人生を味わい深くしようとする試みは良いのだが、そんな人生を続けていくためには多少なりともお金が必要であり、お金をもらうためには、何らかの成果が必要である。

そこで、こんなことを考える。自宅にもう一人自分がいて、移動中の自分の代わりに仕事を進めていてくれたらなんと素敵なことではないかと。

その自分Bは、たった今この瞬間までの記憶を私と共有しており、本日のtodoも当然頭に入っているので、チェックリストの上から一つ一つ仕事をこなしてくれる(まず新幹線で数駅分を移動して帰宅してもらわないといけないが)。

自転車()で65km移動してわかったこと

· 7 min read
Ikuya Yamada
non-stack engineer

諸々の事情が重なり、猪苗代湖を一周したときの話。

10月末の土曜日、駅構内で買ったサンドイッチとホットコーヒーを手に、早朝の東北新幹線に乗り込む。周囲には、ゴルフバッグをもつ乗客がちらほら見られる。那須高原でゴルフでもするのだろうか。(ゴルフバッグを持っているのだからゴルフはするだろうが、問題はそれが那須高原なのか、という点だろう。)

空席を挟んで私と同じブロックに座るサラリーマン風の男性は、スポーツ紙を広げたまま睡眠と覚醒を繰り返しているようだった。スポーツ紙を読んで寝てしまうのは、小難しい本を読んで眠くなるのとどれほどの違いがあるだろうと、これまた眠くて働かない頭で考える。

そうこうしているうちに、新幹線は郡山駅に滑り込む。案内板を見ながら素早く乗り換え、磐越西線、会津若松行き4両編成の列車に飛び乗る。出発までの間、周囲を観察する。私の推定によると、乗車の用途としては観光と日常利用が半々くらいだろうか。

都市部から住宅街、田園風景へと景色は移り変わり、山をいくつか超えただろうか、40分ほど揺られ、そろそろ猪苗代駅に着くかというころ、車内アナウンスが流れはじめる。

naturally_no_arts

· 5 min read
Ikuya Yamada
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万人の万人に対する闘争状態 "the war of all against all" という一節は歴史上重要な発見として教科書に出てくる他、それ自体響きも良いこともあり、各所で引用されているフレーズである。

この「闘争状態」だが、現代の競争社会を表現するのに用いられたりもする。出世レースに勝つために他者を蹴落とす、企業間競争に勝つためにコンプライアンスが無視される、といったように意識的にか無意識的にかはおいといて、ときにあまりにも殺伐とした状態に陥っている社会を指弾する文脈で使われる用法が確立されているように見える。

闘争状態に陥った結果どうなるか

In such condition there is no place for industry, because the fruit thereof is uncertain, and consequently no culture of the earth, no navigation nor the use of commodities that may be imported by sea, no commodious building, no instruments of moving and removing such things as require much force, no knowledge of the face of the earth, no account of time, no arts, no letters, no society, and which is worst of all, continual fear and danger of violent death, and the life of man, solitary, poor, nasty, brutish, and short. Hereby it is manifest that during the time men live without a common Power to keep them all in awe, they are in that condition which is called War; and such a war as is of every man against every man. [...] In such condition there is no place for Industry, because the fruit thereof is uncertain: and consequently no Culture of the Earth; no Navigation, nor use of the commodities that may be imported by Sea; no commodious Building; no Instruments of moving and removing such things as require much force; no Knowledge of the face of the Earth; no account of Time; no Arts; no Letters; no Society; and which is worst of all, continual Fear, and danger of violent death; And the life of man solitary, poor, nasty, brutish, and short.

https://en.wikipedia.org/wiki/Bellum_omnium_contra_omnes より