far-toino
2025年末ではあるが、2024年夏のことを思い出しながら。
遠野物語を読んで遠野市に行きたくなったのか、遠野市をGoogle Mapsで見つけて旅行前の教材として購入したのか忘れたが(おそらく後者)、とにかく本棚には今も新潮文庫版の遠野物語が鎮座している。
柳田国男 著. 遠野物語, 新潮社, 2016.6, (新潮文庫 ; や-15-1). 978-4-10-104706-5. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I027299197
新潮文庫版の『遠野物語』には、巻末に三島由紀夫による解説文が掲載されている。これは三島の『小説とは何か』の九章から抜粋されたもので、この章で三島は遠野物語を題材に小説の定義について語る。
三島による解説はそれ自体が作品のようになっており、芯を食った見事な表現が多く、まさに評論とは何か、を端的に表しているようにも感じた。遠野物語自体もふむふむと読んで興味深い話もあったりしたのだが、この書評に出会えたことで読後の充実感が何倍にもなったことは否定できない。
さて、三島による書評が取り上げた話のひとつに、遠野物語の第二十二節がある。この話は、雑にまとめると、亡くなった老女が幽霊の姿になって家に現れたという話である。非常にシンプルな構造の話ではあるが、その中で、老女の着物の裾が囲炉裏のそばにある炭取(炭をいれておく籠・箱のようなものと思われる)に触れ、その炭取がくるくると回るという一節がある。三島はそこに注目し、この一節にこそ小説が存在するのだと絶賛する。
この中で私が、「あ、ここに小説があった」と三嘆これ久しうしたのは、「裾にて炭取にさはりしに、丸き炭取なれば、くるくるとまはりたり」という件りである。 ここがこの短かい怪異譚の焦点であり、日常性と怪異との疑いようのない接点である。この一行のおかげで、わずか一頁の物語が、百枚二百枚の似非小説よりも、はるかにみごとな小説になっており、人の心に永久に忘れがたい印象を残すのである。 ... しかし炭取の廻点によって、超現実が現実を犯し、幻覚と考える可能性は根絶され、ここに認識世界は逆転して、幽霊のほうが「現実」になってしまったからである。 ... 炭取はいわば現実の転位の蝶番のようなもので、この蝶番がなければ、我々はせいぜい「現実と超現実の併存状態」までしか到達することができない。それから先へもう一歩進むには、(この一歩こそ本質的なものであるが)、どうしても炭取が廻らなければならないのである。しかもこの効果が、一にかかって「言葉」に在る、とは、愕くべきことである。 ... 私が「小説」と呼ぶのはこのようなものである。 ...
というように、この話における炭取の効果を鮮やかに解説したのち、さらにラディカルに、この「炭取の廻点」こそが小説の定義なのだと主張する。
しかし凡百の小説では、小説と名がついているばかりで、何百枚読み進んでも決して炭取の廻らない作品がいかに多いことだろう。炭取が廻らない限り、それを小説を呼ぶことは実はできない。小説の厳密な定義は、実にこの炭取が廻るか廻らぬかにあると云っても過言ではない。
(以上の引用は p141-144 より)
炭取が廻るか廻らないかを小説の定義にしてしまうのはやや過言なのでは、と思わなくもないが(現代人からすると炭取ってなんだ、となりそうである)、ともかく三島が柳田の文体をいたく気に入って絶賛してることはひしひしと伝わってくる。この評論のが最近の小説は本当の小説ではないという苦言から始まっており、見本として遠野物語を引っ張ってきている構造を見ても、三島自身の中にもこの定義が
さて、この炭取の廻点だが、ディテールが大事とか神は細部に宿るとか、その類の表現の延長線上にある概念なのだと考えてみてもよいのだが、きっとこれは
ということも頭に入れて、私は遠野市に旅したのである。
伝承園に展示されている古民家でそれらしき炭取を見つけ、頭の中でくるくると回転させる。その回転を見たのは当時家にいた老女の娘や孫だったとのことだが、それを聞いた柳田が炭取の回転の叙述を棄却せずに採用し、文章に落としたことで三島による優れた解説が
げん
そこに採集の価値ありと見出した柳田と
エスノグラフィーでは特にそうなのだろうが、見聞きしたことから何を見出すことができるのか、そのセンスと実力が重要になってくるのだろう。
いつもと同じ繰り返し、つまらない日であっても回転する炭取でもなんでも見出し、そっと心の(物理的な姿を持っていても良いのだが)メモに刻むことができたならば、すこしは満足できるのではないだろうか。
というような観点と価値観を、容赦のない日差しと山々に囲まれた遠野で学んで帰ってきたことを、なぜか今思い出す。
