2年前の遠野の夏を思い出したこと
2026年の夏になってしまったが、2024年夏のことを思い出す。
遠野物語を読んで遠野市に行きたくなったのか、遠野市をGoogle Mapsで見つけて、旅に出る口実として購入したのか定かではないが、とにかく今も本棚には新潮文庫版の遠野物語が鎮座している。
柳田国男 著. 遠野物語, 新潮社, 2016.6, (新潮文庫 ; や-15-1). 978-4-10-104706-5. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I027299197
新潮文庫版の『遠野物語』には、巻末に三島由紀夫による解説文が掲載されている。これは三島の『小説とは何か』の九章から抜粋されたものだそうで、この付録で三島は遠野物語を題材に小説の定義について語っている。
三島による解説はそれ自体が作品のようになっており、芯を食った見事な表現が多く、評論とはなんであるかを端的に表している。遠野物語自体の魅力もさることながら、この書評に出会えたことで読後の充実感が大きく増した。
さて、三島による書評が取り上げた話のひとつに、遠野物語の第二十二節がある。この話は、雑にまとめるとすれば、亡くなった老女が幽霊の姿になって家に現れたという話である。
自身の葬式を終えたその日の夜、残された家族が寝ている部屋に、老女(の幽霊)がスッと入ってくる。そして老女の着物の裾が囲炉裏のそばにある炭取(炭をいれておく籠・箱のようなものと思われる)に触れ、その炭取がくるくると回りだす。
三島はこの一節にこそ小説が存在するのだと絶賛する。
この中で私が、「あ、ここに小説があった」と三嘆これ久しうしたのは、「裾にて炭取にさはりしに、丸き炭取なれば、くるくるとまはりたり」という件りである。 ここがこの短かい怪異譚の焦点であり、日常性と怪異との疑いようのない接点である。この一行のおかげで、わずか一頁の物語が、百枚二百枚の似非小説よりも、はるかにみごとな小説になっており、人の心に永久に忘れがたい印象を残すのである。 ... しかし炭取の廻転によって、超現実が現実を犯し、幻覚と考える可能性は根絶され、ここに認識世界は逆転して、幽霊のほうが「現実」になってしまったからである。 ... 炭取はいわば現実の転位の蝶番のようなもので、この蝶番がなければ、我々はせいぜい「現実と超現実の併存状態」までしか到達することができない。それから先へもう一歩進むには、(この一歩こそ本質的なものであるが)、どうしても炭取が廻らなければならないのである。しかもこの効果が、一にかかって「言葉」に在る、とは、愕くべきことである。 ... 私が「小説」と呼ぶのはこのようなものである。 ...
そして "現実の転位の蝶番" であるところの炭取の廻転こそが小説の定義なのだと主張する。
しかし凡百の小説では、小説と名がついているばかりで、何百枚読み進んでも決して炭取の廻らない作品がいかに多いことだろう。炭取が廻らない限り、それを小説と呼ぶことは実はできない。小説の厳密な定義は、実にこの炭取が廻るか廻らぬかにあると云っても過言ではない。
(以上の引用は p141-144 より)
炭取が廻るか廻らないかを小説の定義にしてしまうのはやや過言なのでは、と思わなくもないが(そもそも現代人からすると炭取ってなんだ、となりそうである)、ともかく三島が柳田の文体をいたく気に入って絶賛していることはひしひしと伝わってくる。
この評論自体が、最近の小説は本当の小説ではないという苦言から始まっており、小説の見本として遠野物語を引っ張ってきている構造を見ても、遠野物語の中に逆に小説の定義を見出したのだと、そういう読み方もできるかもしれない。
さて、そしてこの炭取の廻転をみてみようと、私は遠野市に旅したのである。
新幹線とレンタカーを乗り継いで遠野エリアに入ると、河童のモニュメントが出迎えてくれる。美しい田園風景に囲まれ車を走らせていると、いくつかのスポットが顔をだす。
伝承園(https://www.densyoen.jp/)に展示されている古民家でそれらしき炭取を見つける。
炭取を回転させてくれる老婆も現れず、自分で立ち入り禁止の札を乗り越えて回転させるわけにもいかない(そして意図的に回したのであればそれは蝶番の役割を果たさないだろう)ので、頭の中でくるくると回転させる。
遠野物語は柳田による伝承の収集をソースとしているので、例の回転を目撃した老女の娘の叙述を棄却せずに採用したことで三島の言うところの完全な小説の姿をとることができたのである。
そこに採集の価値ありと見出した柳田と、さらにそこに小説の真髄を見出した三島。このいわば奇跡のようなバトンタッチが、現在もまだ人を惹きつけてやまない。
これは歴史の記録からエスノグラフィーから、日々の会話でもそうなのだろうが、見聞きしたことから何を見出すことができるのか、どこに重心を置いて情報を取りまとめるのか、これは受け取り手の方にセンスと努力が求められる。
いつもと同じ繰り返し、つまらない日の中に回転する炭取を見出し、そっと心の(物理的な姿を持っていても良いのだが)メモに刻むことができるように心がけたいものである。
というような観点と価値観を、容赦のない日差しと山々に囲まれた遠野で学んで帰ってきたことを、なぜか今思い出す。
