一人であること
年末年始の喧騒を経て2月が訪れる。2月は「逃げる」のだと言われるが、果たして逃げているのは2月の方なのか我々自身なのか。なんてことを問うてみる。
私たちが2月に逃げられることが成立するということは、2月に追いつきたい、2月にそばにいてほしいという願望が前提にあるのかもしれない。
であればなぜ2月なのだろうか。
というよりも、2月に限らず月が過ぎること自体が
結局ぐるぐるして元に戻ってきた感があるが、とにかく2月は短いものである。
さて、年末年始の喧騒とは言ったものの、私自身の回りはとくに喧騒といったほどの騒がしさでもなく、ただしみじみと年を越したものである。この傾向は年々強まるもので、
とはいえ相対的には騒がしいのが年末年始であり、それは人と集まる機会が増えるからで、当然仲間意識のようなものも感じる。
友人や家族と時間を共にすることは、普段社会に揉まれる我々にとっては、どこか自分の居場所を見つけたようで、自分を取り戻したように感じる瞬間でもある。
というような効果を、いわゆる会合に対して持っていたのではあるが、むしろこうした集まりに出向いたとき、帰ったときにこそ孤独は感じられるのだとも言われる。
さて、諸々の集まりに出席してみて色々話してみると、やはりなんだか自分はずれているような気がしていたり、旧友の言葉に共感できないことが増えていたりと、そういうことに気付く。当たり前のことではあるが、このどうにも言い表しがたい感情は、孤独だったのかと、ハッとする。
楽しく食事を仕様と集まった人たちが、それぞれ孤独を抱えて帰宅する。もちろん自分の中にもふつふつと沸く孤独があるのを確認する。なんとも人間はよくわからないいきものだと思い、ただその現象に名前があったこと、もしくは名前を付ける試みを先人がしていたことを知ると、これはこれで、味わい深いものかもしれないと感じた。
はて、2月に逃げ切られる前に、何か一つくらいやってみたいものである。
