引き算をすること
押してダメなら引いてみろ、ではないが 足してダメなら引いてみる、というのが有効な場合もある
押してダメなら引いてみろ、ではないが 足してダメなら引いてみる、というのが有効な場合もある
ジムにて
負荷の高いトレーニングを繰り返すことでより重い重量を挙げられるようになった、という出来事を日々のお仕事に例えてみるならば、負荷の高い仕事を頑張ることで、より難易度の高いお仕事もできる様になった、という話になるのかもしれない。
デッドリフトという種目はフォームを間違えると腰を痛める。お仕事も正当なやり方に従わないと歪みが生じることになるよと、そういうことなのかもしれない
こんなふうにアナロジーで考えてみると、ときにブレークスルーらしきものに遭遇することがある。
だが、
どんなに優れた科学でも確定的なことを記述する能力はなく、科学がもたらすのはあくまで世界の暫定的な理解であると言われる。
今のところ最新の暫定的な結論、である。
科学さんですらそうなのだから、ニンゲンひとりの日々の決断ならば、さらに不確定なものであるだろう。
暫定的
語りえぬものを語る、という本の中で好きな一節がある。
野矢茂樹 [著]. 語りえぬものを語る, 講談社, 2020.11, (講談社学術文庫 ; 2637). 978-4-06-521615-6. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I030718449
p386
非概念的な知覚は、そうして概念的な知覚の隙間から溢れ出し、いつか語り出されるかもしれないそのときを待っているのである。
数年前と比較して、本(ないしはまとまった量の文章)を読めるようになった感覚がある。
速読術を身につけたとかではない。むしろ一冊の本を読み終わるまでにかかる時間は長くなっている気がする。
筆者の言いたいことを把握するコツをつかめてきた感触がある。
ある概念(例:朝食にパンを食べること)を考えるとき、そうでないものを考えることである概念の輪郭が見えてくることがあるかもしれない
白と黒しかない世界では、白でないものは黒である。黒とはなにかを知りたければ、白さえわかってしまえば全体から白であるものを引き算すればよい。
問題は、多くの場合白か黒かは判別不可能なのである。
朝食に
ロジカルであることとは一意に定義可能だと思っていた。ロジカルに物事を考え、雄弁に語れる人と(そうでない)自分とは何が違うのだろうと考えることもあった。
「論理的思考とは何か」という本を読んだ。
渡邉雅子 著. 論理的思考とは何か, 岩波書店, 2024.10, (岩波新書 新赤版 ; 2036). 978-4-00-432036-4. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I033709265
アメリカ、フランス、日本、イランの作文教育に注目しつつ、それぞれの国で実施される作文技術の教育を紹介し、それぞれの地域における「論理的であること」を丁寧に説明してくれる。
無知の知 という言葉自体はずいぶん前から知っていた。 なんとなく、「この世は広く、知らないことだらけだと知り、謙虚に生きていこう」くらいの意味で捉えていた。
最近読んでいる本
千葉雅也 [ほか] 著ほか. 哲学史入門 1, NHK出版, 2024.4, (NHK出版新書 ; 718). 978-4-14-088718-9. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I033402902
の納富さんのところで、ソクラテスの例の言葉は 無知の知 ではなくて 不知の自覚 という言葉を使うべきだろうと主張されている
AIのよくある使い方に、大量の情報をサマリする、というのものがある。
難解な論文をわかりやすいようにまとめて見せたり、議事録を作ってくれたり、画像が含まれるパワポの資料、YouTubeの動画すらも要約してくれる。
実際にこれらのタスクを任せてみるとすごくそれらしきものが生成されるのだが、生成されたデータをどう使おうかという段になると、はて、手が動かないことがある
AI時代にひとりの人間が何をできるだろうかと悩むことがある。
現時点では、なんとかギリギリAIが生成したモノを解釈できているように思えるが、きっともう少ししたら、ニンゲンでは解釈不能な生成物に溢れるような感じもする。
そんな時代で、わたしの如き存在が思考し、アウトプットしたことなど、二番煎じどころか一億番煎じでも足りないくらいかもしれない。